シリーズ〈鳥大の先生に聞いてみよう!〉
筒井宏樹先生(地域学部国際文化コース)編(田中心璃)
公開日:2023年3月16日


大学教員とはいかなる存在か???

謎多き存在 大学教員

大学教員と聞いたとき、どのようなイメージを持つだろうか。何かをずっと研究している人、好きなことに打ち込んでいる人、、?

私は今まで、大学の先生に対して、山積みの本に囲まれながら机に向かい続けているイメージを持っていた。そしてそのイメージは鳥取大学に入学して3年がたっても変わらなかった。

まして、大学の先生が今までどんな人生を送ってこられたかなど、想像することもできなかった。大学の先生は、生まれた時から研究者で、子どもの時からずっと勉強をしているような、生きている世界線が違う存在なのではないかとも思っていた。


チャンス到来

謎に包まれた存在だと思っていたわけだが、この度、小笠原先生のゼミで「大学の先生にインタビューしよう」ということが決まった。これが私の中の偏見を変えるきっかけとなったのである。非常に興味深い話を伺うことができたので、この場を借りて共有したい。

今回、インタビューに応じてくださったのは、鳥取大学准教授の筒井宏樹先生である。芸術学や美術史、現代美術の研究をしておられる先生であり、私自身も芸術や芸術文化形成論などの講義を受講していた。その時、学生のフィードバックをよく汲んでくださっており、その興味や関心の広さが印象的だったため、話を伺おうと決めた。快く応じてくださり、感謝しています。


やはり本に囲まれていらっしゃる


ゲーム・マンガ・プログラミングに夢中になった子ども時代

1978年7月生まれ。愛知県名古屋市出身。4歳年上の兄が1人いる。

家庭用ゲーム機が誕生した時代に重なり、幼稚園生の時にファミコンを入手。小学生の時はゲームにはまっていた。学校を休んでまで発売日に並ぶこともあった。小学生の時、「ハドソンキャラバン大会」というゲームの大会にシューティングゲームで出場し、東海大会で決勝まで勝ち進んだ。決勝戦では当時ゲーム界の注目の的であった「高橋名人」が実況をしてくれたのだが、それが緊張の種となり、優勝することはできなかった。

また、「週刊少年ジャンプ」も流行っており、マンガもよく読む少年であった。パソコンでプログラミングもやっていた。


人生を狂わせた高校選択

ゲームやマンガにハマる一方で、中学生の時は(今では考えられないように見えるが)足が速かった。その実力は地域の大会で100m走1位になるほどであった。そのため、高校に進学する際にスポーツ推薦を使い、日体大系列の体育が盛んな高校に進学した。

しかし、実は自分は本当に心から陸上が好きなわけではなかったのだ。中学生時代はまわりよりも体が大きく、スタートダッシュを極めていたために、足が速いように見えていただけであった。陸上に対するパッションが足りなかったのだ。そのため、体育系の高校に進学したにも関わらず、陸上はやめてしまった。英語研究部に入部したが、部活に行ったことはない。

特別勉強熱心な高校でもなかったため、時間を持て余してしまった。その時間を費やしたのは、ゲームである。高校生時代は、ロールプレイングゲームをやっていた。特に、「RPGツクール」という自分のオリジナルのゲームをつくることができるソフトに没頭した。高校生時代の青春を費やし、小学生からのプログラミング経験も活かし、長編のゲームが完成した。


ゲーム作りに熱中!!

しかし、当時はインターネットの時代ではなく、ゲームを公開する場もなかったため、プレイヤーがいなかった。母親にプレーしてもらおうと試みるも、パソコンに触れた経験のない母親はすぐに挫折。大作のゲームはお蔵入りとなった。

ちなみに、ゲームに没頭する自分に家族の理解は全くなかった。体育系高校に進学した時点で親からは進路に関して諦められていたように思う。自由にゲームを突き詰めることができたのは、親から見放されていたからではないか。変な(⁉)高校に進学したおかげで、親の期待から逃れることができた。そんな自分とは逆に、兄は親からのプレッシャーを代わりに受けてくれていたので、感謝したい。


大学進学の危機

進路選択にあたり、日体大系列の高校ではあったが、体育をやる気は全くなかった。かといって、「RPGツクール」で燃え尽きてしまい、ゲームについて突き詰める気もなかった。進学校でもなかったので、文系理系の相談もできず、どちらでもなさそうな芸術系の学部を見つけ、グラフィックデザインを学ぶ学科に進学した。しかし、進学するもデザインが何かもよく分からず、どちらかというと美術の方が関心を高く持てると気付き中退。

東京藝術大学に再入学した。子どもの時からやっていた『信長の野望』などのシミュレーションゲームの影響で歴史に興味を持っていたため、この時は歴史研究ができる美術史を専攻した。子どもの時のゲームの経験は進路選択に大きな影響を与えたと考えている。


東京藝術大学時代

名古屋から東京に引っ越すにあたり、大学の寮に住むことにした。家賃は月3000円。引っ越しトラックに乗り、寮に到着。部屋のドアを開けようとするとドアノブが外れた。中に入ると天井の蛍光灯が割れており、ガラス片が床に散らばっていた。壁には謎のラッパーっぽい人の顔のデッサンが描かれている。3.7畳の部屋はボロボロで、建物自体もその後アスベスト工事をするような問題物件だった。やばいところに来てしまったと感じたが、結局この寮に住み続けた。

ここから2度目の大学生活が始まったのだが、2度目にしてまさかの留年をしてしまった。とはいえ当時の東京藝術大学は授業や単位取得もそれほど厳しくなく、のどかな大学であった。

しかし、なぜか卒論の締め切り時間に対しては厳しかった。締め切り当日、いつもと違う時間の電車に乗ろうとしたところ、想定外に本数が少なく、締め切り時間ギリギリの到着となりそうだった。急ぐもアクシデントが重なり、10分ほど遅刻。提出しようとするも事務に受け取ってもらえなかった。研究室の先生が事務に電話をして交渉するも失敗。卒論が10分遅れたために留年。よって学部には計5年通った。卒論は、新たに書き直したのであった。

芸術大学であるため、学習内容の専門性は高く、勉強していれば将来は何とかなると考えていた。当時の東京藝術大学の就職率は低く、「アーティストたるもの、就活してはならぬ」という雰囲気すら感じた。けれども、就活をしていなければ、卒業しても当然仕事はない。修士論文を締め切り時間までに頑張って提出した後は、大学からも寮からも追い出されるだけであった。

新卒採用のタイミングを逃し、職歴もなく、大学が「アーティストたるもの、就活してはならぬ」という雰囲気のため、就活の仕方も分からない。本当に困ったことをよく覚えている。親からは、最低限身分証になるから運転免許だけは取っておけと言われていた。この時になると心配のレベルは相当低くなっていたように思う。今の大学生に言いたいことは、締め切り時間は守れ」就活しないと就職できない」ということである。


焦っても間に合わないものは間に合わない!

同人活動時代

学生時代から同人活動をしていた。きっかけとなったのは、洋書の本屋でのアルバイト。同じ店で働いていた人と意気投合し、雑誌をつくろうという話になった。この時、タイミング良く、コミケや文学フリマなどが流行っており、(RPGツクールの時とは違い)作品の受け手がいた。

大衆は大きなメディアから情報を享受するだけの消費者だったのが、2000年代半ばからSNSが登場し、消費者が可視化され、それぞれが小さなメディアを持つようになった。情報をそれぞれ発信する双方向性が生まれたタイミングであったため、充実した同人活動に取り組むことができた。


メインストリームとオルタナティブ

商業誌がメインストリームであるのならば、同人誌はオルタナティブであると考える。メインもオルタナもどちらにも触れてきたが、ずっとオルタナに力を注いできた。就職できなかったとき、派遣社員として美術の専門書の出版会社にもぐりこんだことがある。海外とのやり取りなどについていけず、半年で辞めたが、メインストリームについて勉強することができた。

しかし、やはり小さくても自発的に発信するオルタナ文化にこそ意味があるのではと考え、メインで稼いだお金は同人活動に費やしたという。自分たちの手で何かをつくるということは、たとえ規模が小さくても、届けたい人に届くのではないかと考えている。SNSが台頭したことによって社会がこの価値観に気付くことができたのではないか。2010年代からはSNSが商業に利用されるようになり、かつてのユートピア感はなくなったと感じる。ビジネスが参入し、SNSであってもオフィシャル感が出ると、オルタナの良さは冷めるだろう。今後どのように変化するのか注目しておきたい。


鳥取大学のきっかけ

その後も博士課程に通いながら同人誌や雑誌を制作したり、美術展を企画したり、芸術に関わる活動を行ってきたが、今、鳥取大学の准教授として働いている。それはなぜか。全てはTwitterから始まった。

Twitterで鳥取大学の教員募集のツイートを目撃したのである。応募すると、まさかの採用。教員になれるとは思ってもいなかったが、Twitterというオルタナ文化のSNSがきっかけで教員として働くことになった。鳥取大学地域学部は寛容だと思う。自分の特殊なキャリアに少し不安を感じていたが、いざ鳥取大学に来てみると、それぞれの教授が独特のキャリアを持っており、驚いた。


チャンスはどこにあるかわからない!

ただ、いま鳥取で好きなことを仕事にできているが、細かく言うと、大学の教員となることで、今までとは違い自分の好きなものだけつくるということはできなくなった。依頼されて仕事する機会が増え、ありがたいことではあるが、窮屈さも感じる。教員の立場からつくるのは、メインストリーム寄りという側面が強いからである。

一方で、研究費のおかげでできることの幅もひろがった。展覧会を開催できたり、公開講座を企画したりして、学生から70代まで受講生とともに鳥取文化をリサーチし、その成果として『芸術と文化 鳥取2021』(小取舎)という本を刊行できたりしている。学生時代は小規模の同人誌やZINEをつくるだけで生活苦になっていたが、現在では出版社から本を出してもらえることもあって感謝している。


オタクについて

自分はオタクにはなれなかったと振り返る。プログラミングにしろ、ゲームにしろ、長くは続かず、一つのことをとことん突き詰めることができなかったように思っている。1990年代後半にオタクという存在が盛り上がっていた時には、もう熱が冷めていた。これは思いを共有できるコミュニティがなかったからではないかと考える。ゲームに夢中になっていた当時、田舎の学生で、インターネットも流通しておらず、趣味を共有する機会がなかった。1人でやっているだけでは、どうしても熱意が冷めてしまう。

中高生時代、学校でも周囲とプログラミングやゲームの話をすることはなかった。J-POPが流行していたので、流行の圧力に押され、表向きは音楽の話をしていたように思う。もしかしたら同じようにゲームに関心を持っている同級生がいたのかもしれないが、誰も学校内で話していなかった。それぞれが趣味を持ち、発信できるようになったのは社会の大きな変化のひとつだと考える。


魚が苦手

幼少期からずっと魚介類を食べることができない。親がどれだけ頑張っても無理だった。しかし、家族は魚介類を食べるため、中学生あたりからは、週に数回、どこかでご飯を食べてこいと1000円を渡された。そのうちのいくらかはゲームやマンガなどの趣味に充てていた。給食の時間は地獄であったし、今でも克服していないため、飲み会などは断りがちである。

何事も更新していきたいという思いがあり、新しいことを知ろうとする気持ちは強いが、魚介類が苦手すぎて、魚へんの漢字にはめっぽう弱い。ただ、回転すし屋の「北海道」には良く足を運ぶ。「北海道」の卵焼きは美味しく、つい行ってしまうのだ。ソフトクリームを2回注文することもある。しかし魚には絶対に手を出さない。せっかく鳥取に来たのに、鳥取の恵みを享受しきれていないのではないかとつくづく思う。


ありがとうございました!

以上がインタビュー内容である。筒井先生とお話をする中で、私は、大学の先生も人間なんだと知ることができた。なかなか衝撃的なエピソードもあったが、大学の先生という存在に少し親近感を感じるきっかけになった。

他の先生にもそれぞれエピソードがあるだろう。機会があれば伺いたい。

筒井先生、この度はありがとうございました。


記念写真までありがとうございました。



 © 小笠原 拓 2015