教員が必要な理由

最近は、大学教育も動画で済ませられるのではないか、というような乱暴な議論もあるようだが、そういった議論は、ある当たり前の事実を無視しているように思う。人は何かを教わっただけで、それを使えるようになるのではない。知識を意味ある物として機能させるには、繰り返しトレーニングすることが必要なのだ、ということである。

例えば、このサイトにおける学生たちの記事は、個人差や好みはあるにせよ、基本的に書けば書くほど上手くなっている。単に書きぶりや内容だけでなく、記事を作成する手際の良さのようなものまで含めれば、かなりの上達ぶりを様々な場面で確認することができる。

実際、最近の私の授業でも、そういったトレーニングの場面が大半を占めつつある。もちろん、これは、私が専門としている授業の内容にもよるのだろうが、明らかに言えることは、トレーニングの回数が増えれば増えるほど、基本的に学生たちの技能的な側面は習熟していくということである。

問題は、そのような繰り返しのトレーニングが、学生にとって苦にならないものとなるには、どうすれば良いかということである。その答えは未だ模索中ではあるが、とりあえず、そのようなトレーニングを支援する立場の人間は必要なので、教員が動画に変わることはしばらくの間はないのではないかと、私自身は少し楽観的に考えている。

    

 © 小笠原 拓 2015