もちろん、こんなものは作れませんけどね…(「砂の美術館」展示より)
やってみたいと思っていたのだ
鳥取にある砂の美術館(コチラを参照)では、毎年多くの壮麗な砂像(上記写真を参照)が作られている。あれらの砂像の難易度は正直作ってみないと分からない。砂像を見るたびに、「砂像か…!作ってみたいなあ!」と思っていた。
底知れぬ探究心や、想像力を掻き立てられていた。元美術部であり、同時にものづくり大好き人間でもある私には魅力的なものであった。
ならば、作ってみようではないか!
というわけで行ってみました!賀露!
今回はゼミの愉快な仲間たちと来た。(みんな、ありがとう。愛しています。)荒ぶる日本海と、鳥取県にちなんで、今回は「因幡の白兎」を再現してみようと思う。逃げ惑う白兎と、怒りに狂うサメを。
もちろん砂で!!
何を使うの?
砂像を作るには何が必要なのだろうか…。砂像など作ったことがないので全く分からない。幼いころの砂場遊びと、砂の美術館で見た展示物を思い出す…。
そして揃った100円前後の力強い戦士たち!!
ただしザルは家にあったも。いいもん、ザルとか自炊で使わないから。
ヘラやスプーン、刷毛は砂像の形を整えるために使う。彫刻のように、削るのだ。
バケツは砂の塊を作るため。バケツの中に砂を詰め込んで、ひっくり返して砂の塊を作ろうといった考えだ。ちょうどプリンを作るような要領である。
スコップは砂を入れるためである。(ザルはふるいとして用いる。ただ純粋な砂の像を作るがために)
砂を固めるために、水が必要なのだけど…
静まり給え!日本海!!
実は私は水が苦手だ。特に海など、入ると即座に、呑まれ揉まれて藻屑である。
この日の日本海は荒れていた。少々苛立っている母親のようであった。ザザァーーーーン…、ザーーザザァーーン…と、静かなる怒りを、威圧を寄せてくる。
海とは命の母である。海という名の母は、計り知れぬ寛容さと、全ての命を抱擁する優しさを有している。しかし同時に、全ての命を引きずり込む強引さと、烈火の如き怒りを有している。そんな海には、自然と腰が引ける。海には毎度、畏怖の念を覚えるものだ。
では作っていきましょう!
バケツに入った砂と水を、混ぜる混ぜる混ぜる混ぜる…(疲れる!)
バケツに砂と水を、本当にテキトーに入れて、混ぜる。正確な分量は全くない。分量からすでに製作者の個性が生まれるというものだ。そして製作者の個性は、そのまま砂像の個性となるのだろう。
一度に砂と水をいっぱいに入れると混ぜにくいので、何度かに分けるとやりやすい。混ぜる作業は思ったよりも困難である。混ぜ切ったと思えば、全く混ざっていない砂が現れることもよくある。念入りに、ひたすらに念入りに混ぜる必要がある。
砂を握って固まるくらいの水加減がベストである。削りやすく、しかし崩れにくい。人間で言うならば、すぐに周りに適応できるが、「自分」という芯をしっかりと持った人間のことであると思う。そんな人間に、私もなりたい(これ、何の話?)。
姿を現さぬ砂の塊…ならば!!
バケツをぶっ壊しました。えぇ、スコップでグサッと。
バケツの中で砂を固めたものの…ひっくり返しても振っても叩いても出てこない!砂は実に頑固に引きこもってしまった。押しても引いてもどうにもならない。ヒトの力で砂を詰め込んだわけであるが、その砂はヒトの持ち得る力を遥かに凌駕していた。砂とは何とも、偉大である。
愉快な仲間たちと協議した結果、底から空気を入れる必要があるとの結論が出た。プリンが皿に綺麗に出るのは、底に空気が入るためである。砂の場合もおそらく同じであると、踏んだわけだ。
私はスコップを刃として用いた。刃はバケツに、ボゴリ…と鈍い音を立てて突き刺さった。バケツはバケツとしての生命を、ここに終えたのである。これには非常に心が痛んだ…。
バケツは、創造者の一人となったことを認めなければならぬ。(次ページに続くので、着いて来て下さい…)